7/5/16

WHOLE WORLD




なんだか最近、ここ10年のほどの間に
少しずつ遠ざかっていたものに
また段々と帰って行く感覚が
ありとあらゆる領域で起こっています。
なんだこれーなんだなんだー。

そういえば私コレ好きだったな、とか
そういえば私はこういうことに興味があったな、とか
ああ、そうだ私ってこういう人だったな、とか

恐らく相当世間より浮いていた自分を
社会に適応させることに数年を費やしてきたんだな。
ある程度適応させられたからこそ
自分を表現しながらこの世界で生きていくことができるようになったタイミングなのかも。

義務教育を終了して制服を脱ぎ
大学でやっと自分の好きなことだけをつき詰めて学び始める、みたいな。



前回の記事 ☞ えびと天使と私(と例の人)
でジーザス(見た目はえびちゃん)と話したこと自体が
まるで巨大な目覚まし時計が鳴ったみたいに
私をハッとさせた。

私がスピリチュアルに目覚めたきっかけ ☞ はじまり
があって、そこから入って行った世界の答えはすべて



だけだった。

『神との対話』の
愛と不安についての下りを読んで感銘を受けた私は
今よりずっと若くて、社会から浮いていた分だけ
愛についてまっすぐに考えていた。

ここで言う愛は
日本人が思いつきやすい「恋愛」のことでもなければ
「家族愛」や「博愛」「慈愛」などでもなくて

わたしたち魂の本質の名前です。


それについて思い出したら、
立て続けに素晴らしい文章を目にする機会に恵まれました。


ひとつは、いつの間にか季刊で届くようになった冊子に
大野百合子さんが寄稿していた文章の中。
もうひとつはソニアの古い本です。


大野さんは、私達はどういった存在なのか、ということを通して
『個人的にとらえない』というテーマで書かれていたのですが
これが、私がずっと悩んでいた問題を簡単に解決してくれました。

私はずっと
誰かが言ったことや、誰かがしたことで傷ついたり、
不快な気分になることがとても嫌いでした。
とても何か大きな違和感を感じていたのです。

ですので同じように、誰かを批判したり、
誰かの行動に過剰に反応する人を見るのも嫌いでした。

「なぜ人がすることで傷つくのだろう?」

ある程度の年齢になってからはずっと
相手側が、その人自身の価値観や観念で何かを判断していることが
言動や行動に現れていると頭では分かっていたので
ある意味自分とは関係ない、と理解はしていたのです。

それでも私は傷つき、その「傷つく必要が無いのに傷ついている」という不毛な感情が
なにごともにも答えを出したがる私の性格に重くのし掛かっていたのです。

しかし大野さんの文章のある下りを読み、
私が今まで、ものすごく大きなところ、根本的なところを
全く理解していなかったと気付き驚きました。

それは

「私」という存在は、宇宙のパズルのピースのように、ひとつとして不要なものは無い

というような下りでした。

そして『神との対話』で知った世界のはじまりを思い出したのです。


はじめ、この世界(または宇宙、神)は光と愛だけの存在だった。
しかしたった一つ、唯一の存在では、自分の素晴らしさを知覚できず、体験できない。
そこでこの世界はふたつに分かれた。

ふたつに分かれると、「ここ」と「そこ」ができた。
やがてもっと色々な側面を体験しようと、私達は幾つにも分かれてきた。

だからもともと、私達は繋がっていてひとつなのだよ、


という話。

でもこの「ワンネス」のイメージが
いつの頃からか私の頭の中では勝手に、

それぞれの魂に根っこ、または映画『マトリックス』みたいなコードがあって
それが大いなるひとつの叡智に繋がっているようなイメージにすり替わっていました。
(これなんでだろう。なぞ)


また、ソニアの本には

「私達の魂」と複数形で言っているが、
炎と同様、魂もひとつしかない。

暖炉やかまど、バーベキュー、ライター、火災などは
どれもひとつの炎が様々に形を変えた姿であるように
私達もひとつの魂のそれぞれの独特な表現なのだ。

という下りがありました。

これを「偶然」立て続けに読んだのです。
(おぬしら やるな…ニヤリ)

おかげですべてが繋がり
目の前がパアッと明るくなったように閃きが訪れました。


そうか、
私達は未分化だったひとつの存在から何度も分割を繰り返して、
その分かれた数だけの「担当研究分野」みたいなのがあって
みなそれぞれの担当分野を生きているだけなんだ!

だから映し出しとか、現実化とか、
そこにフォーカスし過ぎずに(3次元の世界では必要だけどね!)

他人でも家族でも、自分以外の人が
自分にどのように反応したり対応したりしても

「あの人は今こんなふうに自分の内面を表現したいんだな。
 それを研究する担当に自分でなっているんだな。」

と思って

「同志よ!検討を祈る!」

ぐらいに客観的に見ることこそが真実なのかも!

それに、多分傷ついていたのは
「愛されたい」「もっと近づきたい」「ひとつになりたい」
という「断絶」を感じることによって起きる欲求があったからだ。

でも相手は

もともとひとつだったけど
「出来るだけ沢山の体験をしたいなあ!」
と考えて分割させた自分自身なのだ。

だから不安にならなくてももともとひとつだし
自分がより体験したくて分割させたんだから
好きにさせればいいのだ。


同時に、ジグソーパズルのように
ひとつとして無くてもいいピースなんてないんだ。
だから自分は絶対的な存在なんだ。

この世界を構成している、というより
もともとこの世界自体なのだ。

だから消えることも無い。
担当部署が変わったり、形を変えることはあっても、
永遠に消えることは無いんだ…。


一瞬にして そう理解し
その上で

「だからこそ、私達はこの3次元の世界を思いっきり楽しめばいいんだ。」

と腑に落ちました。

ポジティブもネガティブも
どんなことも体験してみて
もう要らないな、と思ったら「次の研究課題に移る(手放す)」。
あれやってみたいな、と思ったら「次の研究課題に選ぶ(チャレンジする)」。
決めていた課題がもう完了したから次の形態になって新しい課題をやりたいな、と思ったら「形を変える(生まれる/死ぬ)」。

そう取捨選択しながら、表現しながら
この壮大な、分割した自分だらけの世界を縦横無尽に生きればいいのだ!

この世界には必須科目なんてない!
全部自由科目なんだ!

たーのーしいいいいいいいいい!!!!!



そう思いながら
朝から『Cheap Thrills』で変な踊りをしまくって
ひと汗かいてました。(・∀・)きゃ


今日も読んで下さってありがとう♬






【告知】

まだ2枠あります〜♬


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