3/15/17

選択の連続



みなさまこんにちは♪
あづさです()

東京は
雨が降ったり止んだりの
冷たく柔らかな湿り気の中に
意識しなければ気付かないほどほんのりと
沈丁花が馨っています。

春のこの時期を迎えると
忘れたことすら忘れてしまった大切な記憶が
この空気のどこかに潜んでいるような気がして
ふと立ち止まりそうになります。

でも、その記憶の姿形も薄れてしまって
それが一体何なのかわからないまま
気のせいだったのかも、とまた歩き出す。

春って、そういった
「あたたかくてやさしい正体不明の不安」が
胸の中でぬくぬくと居座る
不思議な季節ですよね。

歳を重ねるほど、素晴らしい季節だと感じます。




こうして季節が巡ってきて
神様のかけたタイマーがカチリと鳴って

今、盛大にいろんなものを
掌から溢れるに任せている人も、多いのではないでしょうか。


この時期は年度末や学期末と重なって
紛う事なき「変化の時期」です。

不安なことや心配なこと、ショックなことなど
心が揺さぶられるようなことが起きている
という人も居るかもしれませんね。

でもそれは決して

「外側で起きている出来事に、為す術も無く揺さぶられている」

のではなく、単に

「自分が望む人生への選択の機会を自ら創り出している」

というだけなのだと理解しているのと、いないのとでは
感じ方も大きく変わって来ると思います。




全ての人、物や出来事は
自分の思考を映し出せるようにして現れているスクリーンに過ぎないので
実はそこに意味はありません。

ですから、

がっかりな(に見える)結果も
最悪な(に見える)事態も
イライラする(ように感じる)出来事も

「ネガティブに見えたり、感じたり」しているのは自分であって

その物事自体は
ただ、起きた。
それだけです。

自分の外側の全ては中立なので
そこに意味は存在しません。

なので、そこにどういった意味づけをするのか
それこそが私達が常にしている「選択」なのです。

そしてその「意味づけ」に
私達は自分の「観念」や「思考」を使っているのです。

逆の言い方をすると
起きた出来事などに対しての「意味づけ」は
私達の「観念や思考の映し出し」だということです。




例えば
自分で詰めるお弁当のサービスがありますよね。

お総菜が沢山並んでいて、
4つや5つの仕切りに分かれているお弁当箱があり
好きなものを好きなところに詰めるアレです。


目の前にある出来事、人、物は、カラのお弁当箱。
お総菜のチョイスや盛り方が、観念や思考です。


一番大きな仕切りに主食を入れる人もいれば
そこにはサラダを詰め込む人も居るでしょう。

揚げ物ばかりのコテコテのお弁当を完成させる人も居れば
何よりも彩りやバランスを考えて入れる人も居ますし
全て多めに入れたり、少なめに入れたり…

その人が、型の決まったお弁当箱(出来事、人、物)の
どこにどういったお総菜(観念や思考)を選んで入れるかによって

ヘルシーなお弁当が出来たり(健康志向)
見た目が綺麗なお弁当が出来たり(見た目重視)
ちょっと物足りないお弁当が出来たり(ダイエット中)
欲ばりなお弁当が出来たりします(お得大好き

つまり「お弁当(出来事、人、物)」の形は全く一緒なのに
個々人によってお弁当そのものの意味が変わってくるのです。

で、このお総菜の詰め方に
その人の観念や思考がハッキリ表れます。

「大きな仕切りにはご飯を入れるものだ」
と思っていたり
「肉を多めにするなんて卑しいことだ」
と思っていたり
「こういう物は損をしないように沢山詰めなきゃ!」
と思っていたり
「ちょっとでも多くなったら申し訳ないから少なめに入れよう」
と思っていたり

そういう「観念」や「被害者意識」「無価値感」を持っていると
それらを表すお弁当が、出来上がります。

なので、本来の自分の姿(愛とワクワクに満ちた姿)から
ズレた観念や思考を持っていると
本当に食べたい、自分の魂に合ったお弁当が食べられないわけです。


さて、
この「詰めちゃったお弁当」が
「起きてしまった出来事」です。

お弁当を詰めて、お会計して、
もぐもぐもぐ…

するとやはり個々人で
お弁当のへの反応があるわけです。


「大きな仕切りにはご飯を入れるものだ」
  ☟
「隣の人、大きい仕切りに唐揚げ入れてる…えー!
 そんなのやっていいって言われたら私もやってたわ!
 そうしてもいいなんてお店の人言ってた?それともこの人ズル?」


「全部肉にするなんて卑しいことだ」
  ☟
「あ、○○くん、全部肉だ。いいな、ちょっと欲しいな…
 でもお肉が好きなんて卑しいから、黙っていよう…」


「こういう物は損をしないように沢山詰めなきゃ!」
  ☟
「あ~食べ過ぎちゃった…毎回やっちゃうな~。私のバカー!」


「ちょっとでも多くなったら申し訳ないから少なめに入れよう」
  ☟
「物足りないなあ…でもあんなにお安くしてくれているのだから仕方ない…」


と、自分の思考や観念で創り上げたお弁当に対して、
色々と反応が出てくると思います。



「起きてしまったこと(詰めちゃったお弁当)」は
「(お弁当を詰めた人の)観念や思考の反映」ですが
もう、とっくに詰め終わっていますし、食べちゃいました。

そう考えるとここで

「あ~~~!自分はなんでこんな弁当を創造したんだ!!!」

と大騒ぎしても何のメリットもないのはわかりますよね。
詰め替えも出来ませんし、返品も出来ません。


でも「反応」は違います。

ここで

「やっぱり自分ってダメだなあ…」

と感じるのか

「あの弁当屋、私にだけ意地悪!?」

と思うのか…

そういう反応を見たときに、
自分が普段、物事をどういう風に考え捉えているかが
よく分かるようになっています。


例えば、

「やっぱり自分ってダメだなあ」と感じていることに気付いたら
「自分のことダメって思っていたんだな。」と理解する。

「あの弁当屋、私にだけ意地悪!?」と感じていることに気付いたら
「自分だけ除け者にされる、と思っていたんだな。」と理解する。

こうして、その反応を観察したときに
それがあんまり好ましくない観念や思考だったら
その場で変えていきましょう。

やり方はとっても簡単♪

その出来事から想定しうる
最もポジティブ且つ楽観的な意味を探してきて
中立である出来事に、
自分でくっつけちゃえばいいのです!


「大きな仕切りにはご飯を入れるものだ」という観念
  ☟
「隣の人、大きい仕切りに唐揚げ入れてる…
 なーんだ!そうしていいんだ!私、入れる場所決まってると思ってた!
 あのお弁当屋さん、そこんとこ自由でラッキー♪
 じゃあ今日は、このオーソドックスな弁当と最後の一日だね笑」


「全部肉にするなんて卑しいことだ」という観念
  ☟
「あ、○○くん、全部肉だ。幸せそうに食べてる~><
 そういえば私、肉を卑しいと思っていたな…大好きなのに…ごめんねお肉。
 これからはもっと堂々と愛することにするよ!
 肉の少ないお弁当さん、教えてくれてありがとう!」


「こういう物は損をしないように沢山詰めなきゃ!」という思考
  ☟
「あ~食べ過ぎちゃった…苦しい~!これで午後眠くて仕方ないんだよねえ。
 よく考えたら、お金では得してるけど結局これで午後数時間を無駄にしているよね…
 そもそも損したくないから多めに詰めようだなんて、損する前提ってこと?笑
 そういえば何でもそういう風に考えているな、私。気付いて良かった。」


「ちょっとでも多くなったら申し訳ないから少なめに入れよう」という思考
  ☟
「物足りないなあ…そりゃそうだよね、少ないもん。笑
 よく見たら、他の人は普通に盛ってるな。
 どうして私は普通に盛れないんだろう…申し訳ない感じがするんだよね。
 え?もしかして私、自己価値観が低いんじゃ…やばい!今気付いた!!!
 取り敢えず次回から普通に盛ることをがんばろう!」


こうして、

「詰めちゃった(実は気にくわない)お弁当」

反応ひとつで

「自分の観念や思考を気付かせてくれた
 (自分の人生の中でもなかなかの伝説となる)お弁当」

に変身するわけです。


よく

お金持ちや成功者は、大きな事件に見舞われた時ほど
『更に幸せになる転機キターー!!!』と感じる。

と聞きませんか?

これは、そういうことです。


ですから、何かが起きてしまったときに

「自分がダメだったから起きたんだ」
「自分の何かが間違っていたんだ」

と、そこにネガティブな意味をつけるのではなく

「はて、ではこの出来事に隠された
 ポジティブな側面とは、一体何だろう?」

創造しうる限りの「ポジティブな側面」を探してみましょう!



【おまけ】

あ、もしここで
「ネガティブな面を見ないようにしなくちゃ」と思うのでしたら
また最初に戻って、よく考えてみて下さい。

出来事は、常に中立です。
ですから、もともとポジティブもネガティブもありません。

なので
「ネガティブな面を見ないようにしなくちゃ」という考え方自体が
すでにちょっとズレているのです。

そんな時私達は、最初からそこに無いものを必死で探して、
無いから自分でどこからか持って来ているんです!笑

ネガティブは、わざわざ持参しなくていいんですよ^^


それでは、

今日も素晴らしい一日になりますように(⁎⁍̴̛ᴗ⁍̴̛⁎)ノシ
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